子嶋寺
(1)沿  革
   高取町大字観覚寺小字垣の内に所在し、山号院号寺号(寺の名前)は報恩山千寿院子嶋寺(ほうおんさん、せんじゅいん、こじまでら)で、当初は子嶋山寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿院と称しました。宗派は高野山真言宗、本山は金剛峰寺、本尊は大日如来です。
  その創立については、日本書紀皇極天皇3年条(644年)に蘇我蝦夷が東漢長直(やまとのあやながのあたい)に命じて、大丹穂山おおにほやま、高取町大字丹生谷)に建立した桙削寺ほこのきでら、法器山寺ほうきさんでらの後身とする説もありますが、寺伝では、752年孝謙・桓武両天皇の疾病を癒した僧報恩が、子島神祠こじましんし、、高取町大字下子島に所在する小島神社)の畔(ほとり)に国家鎮護のため伽藍を建立し、一丈八尺の観自在菩薩と四天王像を安置して子島山寺(現在高取町大字上子島小字法華谷に所在する観音院の傍らに建立)としたとあります。
  二代目延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の麓の霊地で修行中、たまたま出会った坂上田村麻呂が、延鎮の教えに帰依し、また延鎮が同じ出身地である高取町の子嶋山寺の住職であることを知り、この霊地の東山に二人は力を合わせて十一面千手観音を安置し、清水寺を建立しました。その後、田村麻呂は延鎮と協力して地蔵尊像と毘沙門天像(びしゃもんてん)を脇士とし、本堂を広く造りかえました。征夷大将軍田村麻呂は、蝦夷征討の成功と、出陣する全軍の将士が仏の加護によって無事帰還できることを清水寺に祈願しました。また田村麻呂は大和国高市郡檜隅の領地を子嶋寺に寄贈しました。延鎮は報恩が死去すると、子嶋寺に戻り報恩の後を継ぎ、師ゆかりの子嶋寺を本寺、京都清水寺を末寺としました。平安初期には長谷寺と壷坂寺に次ぐ大和国の観音霊場として信仰されていました。
  983年興福寺の僧真興(しんごう)が来住し、現在所在する大字観覚寺に子嶋山寺の子院である観覚寺を建て真言宗子島流を興しました。真興は藤原道長が帰依した人物で、もと法相宗の興福寺の僧でした。のちに吉野の仁賀(にんが)から密教を学び、983年に伝法灌頂でんぽうかんじょう、密教の秘法伝授の師である阿闍梨(あじゃり)の位)を受けました。関白藤原道長も参詣しており、当時は南都七大寺に勝るとも劣らない興隆を極め、境内も現在の高取町東部(高取、壷坂、吉備、木ノ辻に至る)から明日香村西部(平田、真弓、檜隅、阿部山に至る)に至る広大な地域で、本堂(大日如来)、御影堂みかげどう、この寺の御霊を祭る堂で延鎮、真興を祭っている)、三重塔など23棟の建物が並び、ほかに観音院など子院や子坊が21箇所あり真言宗子島流の拠点として栄えました。現在の大学のように各地から仏教の教義を学ぶため多くの学僧がこの観覚寺に住みつき、仏教の、特に真言宗の教義の研究を行っていました。高野山は10世紀末に落雷による火災で諸堂が焼失してから衰退し、11世紀初頭に復興に着手されるに従って、子嶋山寺は真言宗の勧学の寺として高野山の復興に参与しました。この勧学かんがく、学問を奨励すること)の寺が観覚寺とよばれるようになったのが観覚寺の由来です。
  真興が一条天皇の病気平癒を祈祷し、その恩賞として子島寺に「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図こんあやじきんぎんでいえりょうかいまんだらず、国宝で現在は奈良国立博物館に預託)」及び大般若経典、十三重塔を下賜(かし)されたと伝えられ、曼荼羅図は真興が宮廷から持ち帰る際に空中を飛んで運んだという伝説があり、「飛行曼荼羅」ともいわれています。紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図は、京都の東寺(とうじ)と神護寺(じんごじ)の曼荼羅図とともに日本三大曼荼羅図と称されています。
  南北朝時代に戦火で寺院坊舎を失って衰退し、子院を子島山観覚寺と号しました。その後興福寺一条院の支配下に入り本堂や諸堂が再建され、江戸時代になって植村家政が高取藩主になって高取城主植村家の祈願所として庇護を受け、18石の黒印地(大名が社寺などに寄進した土地)を受け、子島山千寿院(せんじゅいん)と改められました。千寿院とは、木造千手観音像(せんじゅかんのんぞう)を本尊とすることから、長寿(千寿)をさずくということから名付けられました。
  幕末には志士月照和上わじょう、和尚のこと)がこの寺に来て住職となり大曼荼羅を模写し子島流の再興に努力しました。京都の清水寺に転居し、勤王の活動を行っていましたが幕徒に追われ西郷と共に薩摩に逃げましたが、遂に海に身を投げました。明治になり朝廷より正四位を贈られました。
  明治維新後、一条院の所轄が解かれ、植村氏の版籍奉還により黒印地もなくなり、無檀・無住の寺になりましたが、明治36年有志の尽力により田畑・山林を買い戻し、庫裏を再建し、高取城の二の門を移し表門として再建されました。以後、千寿院を子嶋寺と改称され、今日に至っています。
(2)国宝紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図
  真言宗(密教)の教えは、人間も本来は仏(ほとけ)であるとする「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」の教義です。密教の法身仏ほっしんぶつ、永遠の過去から未来にわたって仏であるという、宇宙の真理そのものを表している仏)である大日如来(だいにちにょらい)と一体化して修行を行えば、この身このまま仏になることができるとしています。真言密教では、「胎蔵界(たいぞうかい)」と「金剛界(こんごうかい)」との二つの世界観があります。そして、世界は大日如来の慈悲を表す胎蔵界と、大日如来の智慧(ちえ)を表す金剛界とによって成り立っていると考えています。前者はそこからおおいなる哀れみが生じる母胎のような曼荼羅、後者は金剛石(ダイヤモンド)のようにすぐれた世界を表した曼荼羅と定義づけています。この両者を感性的なものと理性的なもの、あるいは女性的なものと男性的なものな
【胎蔵界曼荼羅図・・・左、向かって右に掲げる】 どというふうに対比させています。

  この世界観を図示したものが胎蔵界曼荼羅図と金剛界曼荼羅図です。いずれの曼荼羅図も大日如来を中心に諸仏諸尊が色鮮やかに描かれています。この二種類の曼荼羅は寺堂内の壇の左右に懸けられますが、原則として胎蔵界曼荼羅図が左(向かって右)、金剛界曼荼羅図が右(向かって左)に配置されます。
  真言密教での仏になる方法(修行)は、密教の修行者が「曼荼羅図」の前に座って瞑想します。最初に曼荼羅図にある仏が修行者(我)の胸に入り込み、次に修行者が曼荼羅図(仏の世界)の中に入っていくと観ずる、「入我我入」(にゅうががにゅう)によって、私たち凡人が私たちのままで仏となることができるとする教えです。
【金剛界曼荼羅図・・・右、向かって左に掲げる】

  子嶋寺の両界曼荼羅図は、真言宗の開祖空海が唐より請来しょうらい、仏像・経典などをたのみ求めて受け入れ外国から持ってくること)し、嵯峨天皇に献上されたものです。濃い紺色の綾地(さり気無く織り成してある何かの形や彩りで少し離れて見ると美しさが分かってくるもの)に金と銀を混ぜた泥状の絵具で描いた曼荼羅図です。幅約3m、高さ約3.5m前後の巨大な掛け軸で、実物は奈良国立博物館に保管されていて、当子島寺の申し出により時々当子嶋寺に里帰りをします。
  最近では平成10年1月に七福神の新春まつりに里帰りをして地元高取町の住民と再会しました。昭和55年には本堂の屋根の修復の落慶法要にも里帰りをしています。
  現在当寺には伝統工芸士柳 富治氏が十年の歳月をかけて完成させた、縮小した精密な復刻図が懸けられています。
(3)国指定重要文化財木造十一面観音立像
  2メートルを超える堂々とした十一面観音立像で、檜材の一本造りで、当初は彩色像であったと思われますが、現状はほとんど素地をあらわしていません。右手は静かにおろされて掌を見せ、胸の前でかがめた左手には細首の花瓶を持っています。顔立ちはおだやかで、おおらかさとやさしさの感じる仏像です。現在は東京国立博物館に保管されています。
(4)大日如来像と四天王像
  本尊は大日如来で、四天王像は、本尊を安置する須弥壇しゅみだん、仏像を安置する壇)の四方を護るためその四隅に安置されています。多聞天(たもんてん)は北方、持国天(じこくてん)は東方、増長天(ぞうちょうてん)は南方、広目天(こうもくてん)は西方に位置し、それぞれの方位の世界を護ります。甲冑(かっちゅう)で身を固め憤怒相(ふんぬそう)として、それぞれじ持物(主として武器)を持って、足下に邪鬼(じゃき)を踏まえる武将形が一般的です。
(5)坂上田村麻呂の倚像
  坂上田村麻呂は、当寺の中興(ちゅうこう、衰えかけていたものをもう一度前のように繁栄を続けさせること)の檀主で、大和国高市郡檜隅の領地を子島寺に寄贈しています。
(6)その他、大黒天像、千手観音立像、延鎮僧の像、真興僧の像などがあります。
(7)大和七福八宝めぐり・・・財宝の福宝 子嶋寺
【用語解説】諸仏・諸尊
  仏・・・仏は諸経典を通して出現しました。法華経の「釈迦如来」、薬師経の「薬師如来」、阿弥陀経の「阿弥陀如来」、華厳経の「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」、大日経の「大日如来」などです。如来は仏と同義語です。

  菩薩・・・菩薩は仏の境地に到達しながらも、この世にとどまり衆生しゅじょう、命あるもの)を救済するため慈悲の手を差し伸べる仏で、無仏の時代に衆生を救済する「地蔵菩薩」、仏の智慧を象徴する「文殊菩薩」、慈悲を体現する「観音菩薩」、慈悲の心を象徴する「普賢菩薩(ふげん)」未来の救世主「弥勒菩薩(みろく)」などです。

  天
(天部、てんぶ・・・天はその大部分がインドの民衆の間で信仰されていた神々で、仏教に導入され守護神となった異教の神々です。代表的諸天としては、四天王北方を守る多聞天たもんてん南方を守る増長天ぞうじょうてん東方を守る持国天じこくてん西方を守る広目天こうもくてん)、帝釈天たいしゃくてん、仏法を護る神)毘沙門天びしゃもんてん、四天王の一つの多聞天が独立した場合の名称)吉祥天きちじょうてん、毘沙門天の妃で衆生に福徳を与える神)夜叉やしゃ、仏法護持の神)阿修羅あしゅら、仏法の守護神)梵天ぼんてん、仏法を護る神)聖天しょうてん、仏教守護の神)などです。

  明王
・・・明王は密教において説かれた諸尊で、救い難い衆生を救済するため、忿怒(ふんぬ)の相を顕(あらわ)しています。わが国で最も親しまれているのが、不動明王ふどうみょうおう、大日如来が一切の悪魔を降伏させるために忿怒の相を顕しています)です。他に孔雀明王くじゃくみょうおう、衆生を救う徳を孔雀によってあらわす仏の化身)愛染明王あいぜんみょうおう、衆生の愛欲煩悩がそのまま悟りであることをあらわす明王)などが知られています。